何故「リターン」ベーシストなのか

奏子が「“リターン”ベーシスト」を名乗る理由とそれまでの音楽人生について書いています。

こんにちは。リターンベーシスト奏子です。

奏子

Twitter:@windy_k75

私が「リターン」ベーシストと名乗っている理由。
それは、一度…ならず何度か音楽を諦めて封印し、それでも諦めきれずに何度も再開してきたから。

音楽に目覚めた子供時代のことから始まるので、少々長いです。
そして、暗かったり少々過激な内容も含みます。
ご注意のうえ、お付き合いいただけたら嬉しいです。

止まった時間が動いた日

薄暗い団地の一室。
ひとり取り残された少女。
もう長い間、太陽を見ていなかった。

母親は、もう帰って来ない。
少女はその現実を薄々理解しながらも、現実から逃れるように古ぼけたテレビの画面を見つめていた。
ブラウン管の向こうのギタリストが奏でるフレーズに、心を奪われていた。

少女は20年後、そのギタリストと握手を交わす。
背中を追うと誓う。
それは、決してゴールではなくスタート。
何度目かの、始まり。

音のない籠の中

暗い部屋から少女を連れ出したのは、見知らぬ大人。
何故か、優しい言葉をかけてくれた。
温かい食事を出してくれた。
安心して眠れる場所を与えてくれた。
けど、そこに音楽は無かった。

もう一度、あの曲を聴きたい。
ふと思った音への憧憬を掻き消して、闇雲に勉強した。
そうすれば、見知らぬ優しい大人達は喜んだ。

隠れて歌を口ずさんだ。
古いテレビから流れていた曲を、思い出すまま。
歌うのは、楽しかった。
楽器が弾けたら、どんなに楽しいだろうと夢見たりもした。
夢でしかないと、思っていたけど。

最初の転機は、少女が13歳の頃に訪れる。

3年だけの輝き

少女は中学生になっていた。
学校だけが、籠の外。
学校では、思いきり歌った。

ある企画があった。
中学生の合唱で、教材用歌集のCDを作る。
当時は珍しい試みだったらしい。

ある曲はソロパートがあった。
少女は、そのソロを歌った。
初めてのレコーディングスタジオ。
完成したCD。
コンクールでの入賞。
初めて、達成感というものを味わった。

それでも、この充実した活動は3年限りのもの。
中学を卒業し、少女は歌うのをやめた。
あの頃より大きなステージには、まだ立てていない。

ベーシスト奏子の始まり

歌をやめた少女は、地元から少し離れた高校に入学した。
狙いは、二つあった。
一つは、優しい大人達に支配された(と、その時は思っていた)籠を脱すること。
一つは、軽音部の活動が盛んな学校だったこと。

始まったのは、全く普通の高校生活。
片鱗だけ見えたのは、ベーシスト奏子の始まり。

入部する時、希望パートを聞かれて「ベース」と即答した。
その直前に聴いた、有名なアメリカン・ロックバンドの曲。
強烈な低音を奏でるベーシストが、心に焼き付いていたからだった。

Billy Sheehan.

彼の作り出す8ビートのグルーヴが、身体全体に響いていた。

様々な憧れ

高校生活をスタートしたものの、軽音部での活動は進展しなかった。
未だ籠の中にいた奏子は楽器を持つことを許されず、早速遅れをとった。
憧ればかりが先行する日々。
こっそり、禁止されていたアルバイトを始めた。
貯めたアルバイト代でようやくベースを買った頃、思いきって雑誌のメンバー募集記事に応募してみた。

意外な程すんなりメンバーが集まった。
このとき16歳。
初めて、憧れだったバンドを結成した。
初心者やそれに近い高校生と大学生。
当時流行していたV系のコピーだったが、演奏は聴けたものではなかったと思う。
優しい大人達の目を盗んでの活動。
それでも、楽しかった。
初心者バンド企画などにも出てみた。

そんな中だった。
帰って来ないと思った母親が、帰ってきた。
憧れていた、家族との暮らしが見えた。

脱退、中退、脱出

帰ってきた母親に、籠から連れ戻された。
暗い部屋に取り残されたあの日から、何年経っていただろう。
その時は、それが嬉しかった。

家族との生活。
それは、定職を持たない母とその恋人の暮らしを支える生活。
働く為、高校は中退した。
その時は、それで良かった。
バンド活動も諦めた。
脱退する時に、本意ではないと悟って引き留めてくれたメンバーを振り切った。
それでも、仕方ないと思った。

けど、ある時限界がやってきた。
割と満身創痍だった。
朦朧とする意識の中、自由になりたいと思った。
ベース一本と数枚のCDを握りしめて、脱出した。
奏子は17歳になっていた。
確か、桜が咲いていた。

アンダーグラウンド

母親と、二度目の決別。
今度は自分から手を離した。
他に身寄りはない。
完全に、天涯孤独となった。
行く宛はない。

けどもう、奏子は少女ではない。
何とでもなる。
そんな若さ故の無鉄砲さが幸いしたと、今では思う。

コンビニで、週刊誌を開いた。
ある番号に、電話をかけた。
指定された待ち合わせ場所に向かうと、待っていたのは予想に反して優し気な大人。
案内されたのは、見た事も無い豪華な部屋。
柔らかなソファに煌びやかな調度品。

世間知らずな17歳でも、すぐに理解した。
そこは、アンダーグラウンドの世界。

這い上がる

現れた部屋の主は、初老の男性。
室内の空気が変わったのを感じた。
底知れぬ威圧感だった。
私を連れてきた優し気な男性が頭を下げる。
私も、おずおずと会釈をする。

初老の男性と目が合った。
彼は鋭い目尻を少し下げて言った。

「音楽、やってるのか」

私は、楽器ケースを抱えたままだったのだ。
その声の意外な優しさに、極限に達していた緊張の糸が弛んだ。
促されるまま、色々な話をした。
初老の男性は、頷きながらずっと聞いてくれた。
一緒に食べたのは、優し気な男性がコンビニで買って来たおでんだった。

一時間後、初老の男性が持つ店のひとつで働くことが決まった。
所謂、ホステス。
割と楽しく働いたと思う。
その世界の作法も何も知らず、酒も飲めない。
けど、若いということで許され、可愛がられた。

しかし、半年後、彼に深く頭を下げて店を去った。
初老の男性は、快く送り出してくれた。
「この世界に嵌るのは、まだ早いな」と言って。

奏子は18歳になっていた。
這い上がる覚悟をした。

初老の男性には、それきり会っていない。
彼を思い出す時は考える。
私は、今も出来ているだろうか。
初めて会った時の彼の言葉に恥じぬ生き方を。

「お前は、真っ直ぐに育ったなぁ」

再出発と新たな挑戦

四畳半の安アパートで、本当に独りだけの再出発。
ひとまず、求人雑誌を捲る。
ありとあらゆるアルバイトをした。

交通整理。
バーテンダー。
飛び込みセールス。
パチンコ屋。
ティッシュ配り。
テレアポ。
デパートのマネキン。
ナレーター。
etc.

楽器を弾けるバイト仲間がいれば、お遊び程度にスタジオセッションをすることもあった。
バンドとしては固まらないまでも、そこそこ充実した毎日になりつつあった。

ある日バイト先への出勤中、交通違反で捕まった。
原付ならではの切符の切られ方。
何とも理不尽な気がした。
それなら…と、ある挑戦をしようと思った。

新しいオモチャ

交通違反で捕まった三ヶ月後、大型二輪免許を取った。

教習所に行こうとすると、有無を言わさず小型二輪からのコースを勧められた。
小型免許で乗れるバイクは少ない。
なので、一発試験を受けた。

免許を取ると同時にバイクを買った。
ZEPHYR1100。往年のZに似たフォルムで選んだ。

それからは、寝る間も惜しんでバイクを走らせた。
新しいオモチャが手に入った気分だった。
スタジオに入る頻度は、徐々に減っていた。

そんな時、事故に遭った。
全治三ヶ月超の怪我をした。
半年しか乗っていないバイクは廃車になった。

悪いことは続いた。
ベースを盗まれた。

大切なオモチャは、無くなった。

走り屋

楽器を失くした。
恐らく、というか、盗難。
ショックというか、呆然とした記憶がある。
使い慣れたBucchusのジャズベースに代わる楽器は、なかなか見つからなかった。

一方、廃車になったZEPHYRは貰い事故だったことが幸いして新車に化けた。
当時最新だった、ZRX1200S。
ネイキッド最速と言われていた気がする。

慣らし運転をあっという間に終わらせ、第三京浜に持ち込んだ。
一旦3速まで落とし、一気に加速する。
メーターの針は、いとも簡単に200km/hを超える場所を指した。
深夜で車は殆どいないのをいいことに、更に加速。
トップ5速のフルスロットルでは、250km/hを超えそうになった。
気持ち良くて仕方なかった。

あることに、気付いた。

流動的なメンバーに左右されるバンドと違い、バイクは一人で走れる。
どうせなら、誰もついて来ることの出来ないスピードで走ろう。
速く走ることばかりを追求した。
20歳の未熟な決意だった。

オモチャと引き換えの家族ごっこ

最新のバイクと共に、夜な夜な首都高を廻った。
休日があれば、近郊の峠を走った。
サーキットにも通った。

バイクは頻繁に乗り換え、複数台所有したこともあった。

ZEPHYR1100
RZ-R250
ZRX1200S
Z650
Z1
ZX-7R
ZZ-R250
GSX-R1000

旧車、特にZは憧れで買ったけど。
結局走るのが好きだったから、長く乗ったのは(それでも数年だけど)ZRXとGSX-Rだった気がする。

似たような生い立ちのバイク好きと、21歳の頃に最初の結婚をした。
式は挙げなかった。必要とも思わなかった。
珍しい共通項だけで、当時はうまくいくと思っていた。

結婚生活は2年で終わった。

終わる直前、夫は働かなくなっていた。
楽器も、バイクも、何も無くなっていた。
色々と、背負いきれなかった。

今思えば、家族ごっこ。
天涯孤独同士、反対する人間もいなかった。
それ故の失敗。
今更大したダメージではないと、自分に言い聞かせていた。

IT革命

離婚後、池袋のワンルームマンションで、またも再出発。
汚いアパートをようやく借りられた18歳の頃を思い出した。
あの頃よりは、幾分マシな部屋。
けど、楽器もバイクももう無い。

そんな時、世間ではIT革命と呼ばれた現象が起きていた。
当時まだ23歳。新しいものに興味があった。

とりあえず、パソコンを買ってみた。
以前触ろうとして諦めたMacでなく、Windows XP。
このマシンは、つい最近まで手元にあった。

勢いのあるIT企業にアルバイトで滑り込んだ。
少しだけ、面白いと思った。
ちょっとしたネットビジネスも試した。

また、ベースを弾きたいとも思った。

再開と解雇

インターネットのメンバー募集サイトを使うと、バンドメンバーはすぐに見つかった。
リズム隊は少数派らしいと、初めて気付いた。

程なくして、90’sの流れを引き摺ったハードロックバンドを結成した。

その頃人気だった誰かに少し似たボーカル。
スラッシュメタルに毒されたギター。
ツーバス使いのドラム。
そして、私。

盗まれたジャズベの代わりに、中古で買ったEDWARDS BOTTOM LINEを使っていた。
選んだ理由は、扱い易くて安かったから。
今思うと状態はかなり悪かったが、気にせず弾いていた。
気にするスキルが、まだ無かった。

数回ライブを経た頃、都内某ライブハウスのレギュラーバンドになった。
これからだと思っていた頃。
リーダーだったボーカリストに呼び出された。

「プロからも声がかかってるベーシストが入ることになった」

要は、クビになったのだ。

諦めきれず、そのベーシストが加入した直後のライブを観に行った。
自分がいた頃の音とは、段違いだった。

悔しさが、込み上げてきた。

リッケンバッカー

バンドをクビになって間もなくのこと。
近所の楽器屋で、”Rickenbacker 4003 Blue Boy”が売れ残っているのを目にした。

2004年の限定カラーモデル。
その時、既に2005年の冬だった。

リッケンバッカー。
そのニッチなブランドには、前々から興味を持っていた。
しかし、相変わらずフリーター生活の身には軽くない出費。
いかにも弾き辛そうな見た目も加わり、長らく試奏する勇気も湧かなかった。
しかし、その4003を何故かすぐ手に取った。
ペパーミントグリーンのような”Blue Boy Color”が綺麗だと思ったからか。

触れてみると、改めて感じる角張ったボディの重量感。
今までのジャズベやボトムラインとは全く違う、太くゴツいネック。
だけど、不思議なほど手に馴染んだ記憶がある。

丁度その頃、続けていたIT企業のアルバイトが忙しくもあった。
普段の月より、10万少々バイト代が多かったのを思い出した。
気付いたら、即金で支払いを済ませ持ち帰っていた。
また、挑戦しようと思った。

ライダースジャケット

リッケンバッカーを手に入れると、次はまた弾く場所が欲しくなった。
思えば、初めてまともに選んだ楽器だったから。
早くステージで弾きたかった。

ある時出逢ったのは、インディーズでそれなりの実績を持つドラマー。
彼が以前所属していたバンド名にも聞き覚えがある程。
新バンドを結成し、サポートベーシストに代わる正規メンバーを募集していたらしい。

自分とは段違いのキャリアを持つ相手。
殆ど面接に近い気分で、顔合わせに向かった。
以前のバンドをクビになった経験から、かなり怖気付いていた。

が、あっさり加入が決まった。

初対面の時、何の気無しに黒のライダースジャケットを着ていた。
後で聞くと「その時点で個人的にはOKだった」

そういうものなのか。

斯くして、ブラックレザーの衣装をトレードマークとするガレージパンクバンド「SPICYTONE」がスタートした。
長いブランクに入る直前、24~25歳まで所属していた。
思い入れと、やり切れなさを残したバンドだった。

メンバーは皆、歳上。キャリアも断然上。
ついて行くのに必死だったことを覚えている。
が、密度の濃い活動ができたと思う。

ライブはコンスタントにこなしていた。
この頃から楽曲制作にも参加した。

バンドとして初めて本格的なレコーディングを経験し、音源を発表した。
この頃の音源は最近もネットで拾えた。
懐かし過ぎて笑った。

衣装は必ずブラックレザー。
スージークアトロのイメージに仕立てられていた気がする。
悪い気はしなかった。

このバンドで音楽を続けられればと思った。

スピードへの恐怖

バンドが軌道に乗りつつある頃。
久しぶりにバイクにも乗る機会があった。

友人に誘われて行った、新型車の試乗会。

イベントスペースに用意されていたのは、GSX-R1000 2005年式(K5)。
旧モデルの2002年式(K2)に乗っていたこともあり、わくわくしながら試乗した。
操作系統の軽さに油断し、少しラフにアクセルを開けた。
3速で軽くフロントが浮いた。

扱いきれないと思った。
初めてバイクに対して明確な恐怖を抱いた。
まともな神経であれば、それが普通だ。

しかし旧型GSX-Rで走っていた頃は、崖に面した峠道でもレッドゾーンまで回した。
高速道路やサーキットでは、デジタルメーターの数字が300km/hを指さない(※)ことに苛立つような走り方をしていた。
※2001年以降、最高速規制でスピードメーターから”300″の文字は消えている。

そんな気狂いじみた性質が形を潜めたきっかけ。
それは、首都高のトンネルでトラックに挟まれかけた時でも、峠道の下りで転倒したまま数十メートル滑走した時でもなく。
試乗イベントの安全なクローズドコースで、何気なく走り出した瞬間だった。
本当の意味でスピードを求められるのは、この恐怖を越えられる一部の人間だけだと思った。

それ以降、大型バイクには触れていない。
けど、そのうちまた走りたいなとは思う。
今度はゆったり跨がれるアメリカン辺りで、広い道をのんびりと。

最後のステージ

SPICYTONEの活動は順調だった。
ライブを重ね、楽曲は概ね好評。

一方では、IT業界に本格的に足を踏み入れていた。
インターネットビジネスが爆発的に発展した時代。
経歴を問われないこの業界であれば人並みに生きていけそうと思い、独学で学びつつ働いた。

その間も、バンドではリハーサル・ライブ・レコーディングの予定が次々と入ってくる。
合間を見て、HPやフライヤー・グッズの製作。

残業をこなした深夜にスタジオへ向かう。
夜通し作業し、翌朝はそのまま出社。
そんな日も少なくなかった。
仕事だけでの徹夜も度々あった。
少ない休日は、殆どライブやレコーディングに充てた。

一年程続けると、身体が悲鳴を上げ始めた。
どちらも中途半端にしたくはなかった。

決断を、迫られていた。

意を決して、メンバーに打ち明けた。

「辞めます」

惜しまれつつも、快く見送ってもらえた。

2006年8月13日、渋谷CLUB CRAWL。
これが、ベーシスト奏子の最後のステージになった。
…筈だった。

それから10年目、また同じステージに立つなんて。
そんなこと、思いもよらなかった。

ヒルズ族

バンドを脱退してから、皮肉にも仕事は順調だった。
働いていたのは、チャンスだけは平等に転がっているベンチャー企業。
音楽は完全に封印し、がむしゃらに働いた。
業界最大手でのアルバイト経験は、意外と通用した。

ITベンチャーは、色々な意味で流れが速い。
程なくして肩書がつき、収入は倍増した。

当時26歳。
自分を高校中退の水商売上がりと思う人間はいなくなっていた。
這い上がれた気がした。
このまま上り詰めようとさえ思った。

そういえば、当時の私のような人間はITバブルの象徴、ヒルズ族などと言われ、浮かれていた。
その頃手にしたものは、、、

ブランドの時計にスーツ。
都心のデザイナーズマンション。
そして、高飛車な自分。

どれも、音楽と…憧れのステージと引き換えにして欲しいものでもなかった。
けど、当時はそれに気付かなかった。
リッケンバッカーは、ハードケースで眠っていた。

ワーカーホリックの崩壊

バンドを辞め音楽も封印して、かなりの時間が経ったように思えた。
ベーシストだった筈の奏子は、外面だけ飾り立てた仕事人間に成り下がっていた。

ほぼ毎日、日付が変わってからタクシーで帰宅。
シャワーを浴び、着替えたら再び出勤。
バンドと両立しようとした時以上の激務になっていた。
顔色は化粧で隠し、怠い身体はスーツで締め上げる。
蓄積する疲労は、身を飾り立てることで誤魔化した。

脱退・封印という決断は、結局意味をなさなかったということだ。
当然ながら、その結果からは目を背けた。
認めたら、きっとおかしくなる。
仕事で成功して地位と報酬を得ることが幸せと思い込もうとした。

しかし、無理な自己暗示は長くは続かないらしい。
ある日、出勤中にふと意識を手放した。
気付いたら、病院へ担ぎ込まれていた。

抜け殻

人生で二度目に乗った救急車。
病院のベッドで、ぼんやりと考えていた。

(最初は、バイク事故の時だったな)

怪我が無いのに身体がガタガタなのは不思議だな、とも。

ドクターストップにより、半ば強制的に休職。
仕事には大穴を開けた。

自ら飛び込んだ、実力次第で直ぐに上へ行けた環境。
結果を出せなければ、切り捨てられるのも早い。

(這い上がっても、一瞬でまた堕ちることになったな)

暫く経って世間を賑わせたのは、米国の某巨大投資銀行の破綻劇。
一時は勢いのあった勤務先のITベンチャーも、あっけなく吹き飛んだ。
沢山の知人が、事業を畳んだり失職したり。
地元に帰っていく者、行方不明になった者。

そんな中残っていた取引先のツテもあり、何とか生活に困らない程度の仕事は確保できた。

(自分は、まだ良い方かも知れない)

只、音楽に対する想いは忘れ去っていた。

こういう状態を、抜け殻と言うのかも知れない。
せめて、これからは普通の人生を送りたいと願っていた。

普通への憧れ

倒れて以来、時間が止まっていた。
正確には、楽器をしまい音楽から離れた時から止まったままだった。

それも、慣れれば徐々に薄れていく空虚感。
無茶な挑戦をしなければ、平穏に暮らせる。
それでも良いか、と考えていた。

そんな中、2度目の結婚をした。
仕事を通して出会い、尊敬できる相手だった。
優しい義両親もできた。
親という存在を自然に敬えるのは、こんな人達がいるからなのか。
若干の自虐感を抱きつつも、嬉しかった。

普通に祝福され、普通の結婚式を挙げた。
仕事は続けていたが、気に入っていたマンションは手放した。
夫の家に移り住むため。

持っていた楽器・機材も、殆どを処分した。
だけど。
一年程しか使っていなかったリッケンバッカーだけは、どうしても手放せずに持って行った。
ハードケースは、敢えて開けなかった。

奏子は28歳になっていた。
暫くの間、穏やかな日々を過ごした。
暫くの、間は。

きっかけ

きっかけは、唐突に訪れた。

ある時、古い荷物の整理をしていた。
と言っても、方々を転々と移り住んできた人間の私物は少ない。
ましてや、バンド関係の物は最後のライブ後に殆ど処分していたのだ。
その中に残っていた、大切にしまっておいたもの。
籠の中にいた中学生時代、少しだけ抜け出して行ったライブ会場で買ったパンフレットが出てきた。
チケットなど持っている筈はなく、微かに漏れる外音だけ聴いて帰ってきた。

あの時、暗い部屋の古ぼけたテレビ。
不鮮明な映像でしか知らなかったギタリストのプレイを。

柴崎浩氏。

彼は今、どうしているんだろう。
あの時のバンドは…WANDSは、とうに脱退・解体している。
その後の、al.ni.co.も。

気になり始めると、止まらなかった。

衝撃

子供の頃、憧れたギタリスト。
当時は、ブラウン管の向こうの存在だった。

彼の…柴崎氏の”今”が、気になって。
訪れたのは、横浜にある小さなライブバー。

セッションライブ、と位置付けられているのだろうか。
限りなく自由なステージ。
耳に残る、澄みきったクリーントーン。
楽器も機材も当時のままではないのに、この音だと思った。

憧れの存在が、目の前にいた。
憧れの音が鳴っていた。

それ以上に衝撃を受けたのは、ベースだった。

真赤なP-PROのフレットレス。
ベースとは俄かに信じられないフレージング。
それでいて太い強烈なグルーヴ。

永井敏己氏だった。

釘付けになった。
その時、ふと思い出した。

奏子も、ベーシストだったのだ。

この時、既に30歳目前。
リッケンバッカーをハードケースにしまってから、5年が経とうとしていた。

再開

衝撃のセッションライブから帰宅後。
衝動的に、クローゼットの奥からハードケースを引きずり出した。

一年程しか使わず、しまっていたリッケンバッカー。
もう弾かないと思って手放そうとも思ったけど、何故か置いておいた。

開けたケースの中は、最後にステージに立った時から時間が止まっていたようだった。
あの日から一度も触っていなかったが、奇跡的に良い状態に保たれていた。
そういえば、最後は丁寧にメンテナンスしておいたのを思い出した。

持ってみると、とても重く感じた。
同時に、懐かしい感覚に支配された。

伸ばしてアートを描いていた爪を切り、適当に弦を鳴らしてみた。
久々に弾くと、全く手が動かない。
指もすぐに痛くなった。

だけど、楽しくて仕方なかった。

レッスン

25歳の夏に封印した、リッケンバッカーと音楽活動。
30歳になろうとしていた冬、封印を解いた。

きっかけは、あの日のセッションライブ。

しかし、当然ながらバンドはもう組んでいない。
指もすっかり動かなくなっていた。
元々単独では演奏し辛いベースという楽器。
できることは、自宅でたどたどしい音を鳴らすだけ。

そのまま数ヶ月が過ぎた。
進歩した気がしない。
通い始めたライブバーでよく聴く曲も、まともに弾けない。
振り返ると、”誰かに教わった”経験が全くなかった。

(せめて、好きな曲を弾いて楽しみたい)

縋るように向かった先は、あの日の圧倒的なベースプレイが焼き付いていた、永井敏己氏の元。
動機は、そのライブバーで見た生徒募集の貼り紙。

突然、個人レッスンを受けることになった。

同世代のジェネレーションギャップ

実に5年近くのブランクを経て、ベーシストに戻ろうと思った。
まともに弾けず落ち込みながらも、リハビリを兼ねた初めてのレッスンに楽しく通い始めた。

その頃、偶々昔の音楽仲間と集まる機会があった。
近況報告に花が咲き出した頃、ふと違和感を感じた。
音楽の話が、全く出来ないのだ。
寧ろ、最近聴いている音楽や楽器を再開したことを嬉々として語ると、生温い視線が注がれた。

同世代の音楽仲間(だった人々)は、皆音楽を止めていた。
それはそれで、無理はないと思った。
30代が目前に迫り、家庭を持つ割合も上がっている。
何時までも20歳そこそこの夢を追ってはいられない。
そもそも、いい歳をして大人気ない。

確かにそうかも知れない。
けれど、そんなに可笑しいことだろうか。
若くなければ、プロでもない。
平凡ないい大人が音楽をするのは、それ程みっともないことなのか。
当時は、そんなことが気になって仕方なかった。

音楽の世界に引き戻される毎に、同世代との隔たりを感じた。

街角に隠れたステージ

リッケンバッカーのケースを開き、再びベーシストになろうと思った。
失った時間を取り戻したいと思った。

いつかは…と思いつつも、人前で弾く勇気は持てなかった。
今更バンドなんて出来ない、そう決めつけていた。
代わりに、魅力を感じたミュージシャンのライブには足繁く通った。
それも、街の小さなライブハウス・バーで夜毎に行われるセッションライブ。

仕事が早く終わった夜にふらりと立ち寄り、軽く呑む。
そんな気軽さも心地良かった。
そして、通うたび素晴らしいプレイヤーに出逢った。
そして、永井敏己氏に師事するきっかけでもあった。

大御所と呼ばれる超一流プレイヤーも、自分よりずっと若い新進気鋭のプレイヤーも。
自由に入り乱れる音の洪水を気軽に浴びられる場所。
色々な街の片隅に、こんな場所があったなんて。

今更もう、ステージなんて立てないし。
このまま、平凡に暮らしつつ細々とベースも弾ければ良いか。
そんなことを思っていた。
夫も趣味があり、お互い思い思いに過ごしていた。
それならそれなりに幸せかな、とも。

踏み出すのには、まだ時間が必要だった。

ジャムセッション

それは、ふとしたきっかけだった。

相変わらずライブバー通いをしていたある日。
見知った演者さんがホストを務めるジャムセッションの存在を知った。
深く考えず、ベースを担いで行った。
少ないレパートリーの中から、それなりに弾ける(筈だった)曲を選び、ステージへ。

結果は散々。
まぁ当たり前だ。
その手の作法も何も知らず、当日の飛び入り参加。
生身の人と合わせるのも何年ぶりだろう。
でも、楽しかった。

ぼんやりと思った。
(こんな風に、自由な演奏ができたら)

以来、少しずつ誰かと演奏する場に出て行くようになった。
それでも、未だにアドリブは苦手だ。
緊張してヘロヘロか、テンション上がって暴走するか。
幸い、今は身近なところに目標となる人物が沢山いる。

あの時のセッション初心者をサポートしてくれた演者さんとは、それきり一緒に演奏できなかった。
もうセッションホストもしていないようだ。
そのうち、共演できたら嬉しい。

遠征

気付けば、音楽にとことん貪欲な自分がいた。
そうなると、フットワークは軽くなる。

気になるミュージシャンがいれば、プロアマ・有名無名問わず可能な限り生音を聴きに行った。
楽しそうなライブやイベントには、リスナー・プレイヤーどちらでも参加した。
北は東北・福島、南というより西は、島根県。
楽器を担いで行ったのは名古屋までだったか。
スラップ好きなベーシストばかりが集まった、面白い集まりだった。

多くの縁があったのは、意外にも静岡県だった。
三島には大好きなライブバーがある。
静岡市内の楽器店では、友人たちと共に憧れのベーシストに手ほどきを受ける機会に恵まれた。
今度は、楽器の街浜松にも行かないと。

海外に飛んだこともあった。
プラハのブルタヴァ(モルダヴ)川に行き、昔うたった合唱曲の元になったクラシックナンバーを思い出した。
音楽の都ウィーンでは、街の小さなバーでクラシックイベントを鑑賞した。
まだまだ、行きたい所は沢山ある。

今度は、お気に入りの楽器と共に海を越えられればいい。
そんな夢も、微かに見えてきた。

相反するもの

憧れていたベーシストに師事しつつ、ライブハウスやセッションバーに通う日々。
それなりに充実してはいたが、少しだけ物足りないのも事実だった。
バンドでの活動はしていなかったからだ。

リッケンバッカーを手に取る度。
最後に加入したバンドを脱退した時の寂しさ・後悔を、否が応でも思い出していた。
この気持ちを払拭できる時は、再びバンドに戻れた時だろう。
リッケンバッカーを封印する前を超えるステージができた時だろう。
そんなことも薄々感じていた。

また、バンドでステージに立ちたいと思うようになった。

一方、落ち着いていた本業は再び忙しくなりつつあった。
未だ、IT業界を流れていた。
そんな中、夫は私に普通の女性であることを望んだ。
(普通の女性の定義について、答えは無いと思っている)

自分がなるべきものと、自分が欲するもの。
なかなか相反するものだった。

再び、限界が近付いていた。

また、ステージへ

もう一度ステージに立ちたいと思いつつも、何となく気後れしていた。
そんな中、何となくバンドメンバー募集サイトに登録した。
そこで気になる音源があった。
サイト経由で連絡してみた。

あっさりと、バンド加入が決定した。
半年後、自然とステージに戻っていた。
最後のライブから、8年が経っていた。

同時に、色々な意味で生活を一変させた。
活動再開時期と被ったのは偶然だけど。
今思えば、必然だったかもしれない。

選択と少しの心残り

料理は好きだった。
綺麗な部屋作りも好きだった。
けど、主婦では満足できない。
それだけでは、足りない。

好きな音楽を求めて、何度離れても戻ってきた。
だから、欲張りにもその道を選んでしまった。
それだけではないけれど。

結局、妻という立場からは自ら離れた。
二度目の別れだった。
家族というものは、つくづく自分には似合わないと自嘲しつつ。
また、一人になった。
それでも、穏やかな気分だった。
今は互いに笑い合えるから、これで良かったのだろう。

ただ。
子供を産まなかったのは、この生き方を選んだ…選ばざるを得なかったと思っていた、私なりの責任の取り方だった。
それが正しかったかどうか判るのは、きっと人生を終える時だろう。

私は子供が大好きだ。
好きだからこそ、私は産まない。
子供の為に。。

そう思って、自分を納得させた。

GrapeChord

自分が結成した中で、最高だったと思っているバンド。 ※執筆中

解散・依存・PTSD

GrapeChordの解散と共に訪れた人生の転機。※執筆中

広がる可能性

インターネットが普及する前、バンドメンバー集めはスタジオの貼り紙や音楽雑誌の投書コーナーに頼っていた。

宣伝や集客に関しては、とにかくライブの本数をこなしてフライヤーやデモテープを必死で配っていた。

今思えば、気の遠くなるような努力をしていた。
そして、そこから得られる結果はごく僅かなもの。
全く意味をなさなかったことも沢山してきた。それを考えると、いま可能性は格段に広がっただろう。

これから

これからは、ITとインターネットを活用して音楽の夢を叶える方法を伝え、広げていきたい。
それがどんな夢であっても、全てのミュージシャンの可能性を無限にする力を秘めているから。

音楽を生業にするプロミュージシャンも、趣味で楽しむアマチュアミュージシャンも、それぞれの生き甲斐を見出せるように。

ひとまず、私の音楽ライフリターン物語はここまでです。
続きは、、、
あなたも加わって、一緒に「幸せな音楽ライフ」を実現しましょう。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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